2018年12月、5期生にとって初めてのトップランナートークは、「バカの壁」や「遺言」などの著者としても知られている解剖学者の養老孟司さんです。
「解剖学では、生きている人を解剖することはできないので、死んだものを解剖するのですが、どこからが「死んでいる」なのでしょうか。」
養老さんは人の「死」の定義のお話をはじめました。
養老さんが子どもたちに問いかけると、「動けなくなったら」「全ての細胞が死んだら」と会場から声があがります。
「答えを言うと、医師が死亡時刻を書いたところで人は死んだことになり、解剖してもよいということになります。「生きている」か「死んでいる」かということを、単に言葉で切っているのです。」
例えば、消化管は一本の管ですが、丁寧に食道を見ていくと胃の粘膜がついていたりして、どこからが胃でどこからが食道かがわかりません。胃と食道の境目を明確に決めることはできないのですが、胃と食道という言葉を使います。言葉がある上で物事を捉えるから、言葉を使う以上表せないことが出てくるのです。
養老さんは次の質問を投げかけました。
「では、死んだ人は「人」なのでしょうか、「もの」なのでしょうか?」
頭を悩ます子どもたち。養老さんはお話を続けます。
「生きているか死んでいるかに関係なく、人は完全に物体で「もの」ですよね。では、「人」とは何かと考えると、世間が明らかに人というものを決めていることに気がつく。「世間の人」だけが、「生きている人」だと定義しているのです。」
昔から日本では、生まれてからが「人」なんだという観念が強かったといいます。例えば、かつては妊娠中にサリドマイドという薬を摂取すると生まれてくる子どもに障害が残るということがありました。アメリカでそのような赤ん坊の死亡率が25%だったのに対し、日本では70%だったそうです。つまり、彼らを世間にだしてはいけないと積極的に助けなかったのです。
「生きている人と死んだ人は違うという感覚はあります。死んだら、履歴書や同窓会から抜けないといけないように、「人」と思っているものの中に死体は含まれていません。日本では、葬式のときに小さな塩の入った袋を使いますが、これは死んだ人は汚れがあるとされているからです。」
真剣な眼差しで話に聞き入る子どもたちに向かって、養老さんはこう続けました。
「君たちは、言葉の世界に依存しすぎているから、「生」と「死」を明確にわけられると思っている。でも「人」の定義が怪しくなってくるのが、死ぬところと、生まれてくるところ。ユダヤやアメリカ、国や宗教によっても捉え方が違うのです。」
養老さんは、「生」と「死」の境界線をテーマに、私たちがいかに言葉をベースに日常を捉えているかということに改めて気付かせてくれたように思います。子どもたちからは、「なぜ人間は言葉をつかい続けるのか」「最初のノイズは言葉だったのではないか。それで言葉の世界しか見られなくなったのではないか」など、次々と質問が投げかけられました。
矢継ぎ早に子どもからの質問がノイズとして騒めく中、常識を疑って捉え方を変えるだけで言葉が持つ意味が変わったり、言葉で作られた世界に限界が出てくるということに気づかせてくださる養老さんの言葉には重みがありました。
常識の壁をグラグラと崩されるような養老さんの言葉による投げかけは、子どもたちにどう響いたでしょうか。常識を打ち破るような疑問を子どもたちが自分の中で見つけ出した時、この日の話を思い出す時が来るかもしれません。
Photo by SAKIDA KOKI(3期スカラー候補生)